記憶は、判決ではない。
記憶が便利になるほど、それは答えのように見えます。しかし記録された言葉は、ある時点で、ある文脈から得られた証拠です。現在の本人の意見や、永遠に正しい結論ではありません。
だから出典と時点を残します。どこから来たかを辿れない記憶は、賢く見えても、訂正する場所がありません。
訂正は、過去を消さない。
間違いが分かったとき、古い記録をなかったことにすると、なぜ判断が変わったのかも失われます。新しい証拠、訂正した人、変更した時点を結び、歴史として残します。
撤回も同じです。公開をやめることと、最初から存在しなかったことにするのは違います。見せない境界と、監査できる履歴を分けます。
公開の知識と、私的な記憶を別の部屋に置く。
形式が似ていても、公開した文章、限定された情報、個人の記憶は同じ権限では扱えません。公開検索へ入るのは、本人が公開を選び、正本のURLと引用位置を持つものだけです。
リポジトリにある、以前見えた、検索できる、という事実だけでは公開の同意になりません。便利さより先に、到達できない境界を作ります。
根拠が尽きたら、答えも止める。
記憶を読むAIは、本人を演じるためにあるのではありません。根拠を探し、出典を示し、確かな範囲だけを説明するためにあります。
分からないことを滑らかに埋めるより、公開された答えが見つからないと言える方が、長い時間に耐える知性です。